今治市と立川文庫

講談本「立川文庫」の原作者は,今治市出身の山田阿鉄一族。山田阿鉄とその家族,講談師・玉秀斎が,明治44年から13年間に196巻の物語を立川文庫として出版した。それで,今治市には猿飛佐助のブロンズ像もあるそうだが,彼の地出身の図子英雄氏によると,
『明治29年,今治・片原町の廻船問屋「日吉屋」の美貌の女主人,山田敬は巡業に来た講談師・玉田玉麟と大阪へ駆け落ちした。養子の夫又助と五人の子を置き去りにしての出奔であった。寄席の人気がいまひとつ盛りあがらぬ玉麟を真打ちにしようと心を砕いた敬は速記本の人気に目をつけ,速記者の山田都一郎を組ませて講談の速記本を出版し,玉麟は,二代目玉田玉秀斎を襲名した。』
『敬の長男で歯科医修行中の阿鉄は,博学多識で,誇大な空想癖があり,戯作者の資質を十分に備えていた。玉秀斎と母親が直面した危機を阿鉄は書き講談(創作講談)で打破しようと試みた。阿鉄は山田酔神の雅号をつけ,玉秀斎の講談を脚色し,長編の講談「諸国漫遊・一休禅師」を書き上げた。』
『玉秀斎はこの原稿を大阪の出版業者に次々と持ちこんで断わられたが,立川文明堂の立川熊次郎が出版を引き受けた。・・・玉秀斎や敬は「玉田文庫」と名づけたかったが,熊次郎は「立川文庫」という名称に固執した。やむを得ず譲歩して,文庫の表紙に日吉屋の女紋である揚げ羽蝶をつけることにした。』
もっと面白いことがたくさん書かれているのだが,現在,リンクが切れており残念。関係者の方に復活をお願いしたい。池田蘭子の「女紋」も参照。