ハリネズミと狐とトルストイ

ハリネズミと狐―『戦争と平和』の歴史哲学
一般に分冊数が多いほうがよいのか,少ないほうがよいのか,は趣味にもよるのだろうが,私は,分冊数の多いほうが読んでいく上の,区切り,励みがついてよいと思っている。学生のころ,「戦争と平和」を岩波文庫で読もうと思ったときには,ちょうど品切れの時期で,新刊書店や古書店を探してようやく集めたものの,肝心の第1分冊がどうしても見つからなかった。結局,神田の山陽堂に注文して,すべて揃ったが,そのときには2~8分冊まで読み終わってしまい,プロローグを最後に読むという変な具合になってしまった。出だしがそうだったものだから,その後,ちゃんと読み返したにもかかわらず,いまだに「戦争と平和」をまともに読んでいないという不全感が抜けない。不全感はそれだけではなく,「戦争と平和」は,たとえばオードリー・ヘップバーンの映画で見たようなロマンティックで感傷的な物語の部分と,トルストイが自らの歴史観を滔々と述べた部分に分けられ,後者を,何度読んでも,なおざりにしているのではないか,という後ろめたい感じにも係わっているらしい….。
その気持ちを多少でも払拭してくれる本が岩波文庫にあった。バーキンの「ハリネズミと狐」がそれで,タイトルは「狐はたくさんのことを知っているが,ハリネズミはでかいことを一つだけ知っている」という古い詩句に基づく。バーキンは古今の芸術家・思想家をこの二つのタイプに大別する。ハリネズミ派としては,ダンテ,プラトン,パスカル,ヘーゲル,ドストエフスキー,ニーチェ,イプセン,プルースト。狐派としては,シェークスピア,アリストテレス,モリエール,ゲーテ,プーシキン,バルザック,ジョイスをあげる。
さてトルストイは,というと一筋縄ではいかない。彼は一元論者なのか多元論者なのか,彼のビジョンは単一なのか複数なのか….明確で直截な答えは出ず,むしろその問題のたて方が全く適切でないのかと思えてくる。トルストイは他の作家にも増して自分自身の見解や態度について多くを語っているのに,なぜそうなのか。これについて,バーキンの仮説は,「トルストイは本来であったが,自分はハリネズミであると信じていた。彼の才能,業績は,彼の信じていたこと,したがって自分自身の業績についての彼の解釈とはまったく別物で,そのため彼の理想は,当の本人と彼の天才的な説得力にいいくるめられた人々をして,彼ならびに他の人々のしていること,あるいはしているはずのことについて,体系的に誤解させることになった」というものである。
バーキンは「戦争と平和」を例として,トルストイの歴史観を解明しようとし,トルストイの中心的なテーゼを「自然の生活と同様に人間の生活を規定する自然法則があるが,人々はこの仮借なき過程に直面することができず,それを一連の自由の選択であるかのように描き出そうとして,起こったことにたいする責任を,彼らが英雄的美徳ないし英雄的悪徳を付与した人々,彼らが「偉人」と呼ぶ人々の上に固定しようとするということにある」と考える。ほかに,トルストイの思想の源流をメーストルにあるとし,この人間嫌いでペシミスティックな思想家からの影響を詳細に検討するなど,本書は「戦争と平和」に興味のある人にとって,とても面白く,刺激的な本である。
☆本書関連の文庫本☆
戦争と平和(トルストイ)
トルストイの「戦争と平和」は,19世紀初頭,ナポレオンの侵入というロシヤが経験した未曾有の危機の時代を,雄大なスケールで描破した世界文学の最高峰。「歴史をつくるのは少数の英雄や為政者などではない」―巨匠の筆は500人をこす登場人物ひとりひとりを心にくいまで個性豊かに描きだし,ここに歴史とロマンの一大交響楽が展開する。(解説目録)
岩波文庫にはほかに,トルストイに関する興味深い評論が一つある。
ゲーテとトルストイ(トーマス・マン)
ゲーテ,トルストイを「自然」に,シラー,ドストエフスキーを「精神」に対比し,「自然」と「精神」の関係を論じたエッセイ。その関係を,それぞれが求めあう相互的な関係としてみようというトーマス・マンの論点は,彼の思想の重要なキーワードである「中間」「中間の立場」を理論的に述べたものとして重要視される。(解説目録)