岩波書店
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「つゆのあとさき」について荷風は,「教師をやめると気楽になって,遠慮気兼をする事がなくなったので,おのずから花柳小説のようなものを書きはじめた。カフェの女給は大正十年前後からにわかに勃興して一世を風靡し….しかし震災後早くも十年を過ぎた今日では盛りを越したようである。これがつゆのあとさきの出来た所以である」と述べています。
また,老境を語って,「巴里には生きながらの老作家をまつり込むアカデミがある….大正文学の遺老を捨てる山は何処に在るか….わたくしは「生活の落伍者」または「敗残の東京人」である。さればいかなる場合にも有島,芥川の二氏の如く決然自殺をするような情熱家ではあるまい。数年来わたくしは宿阿に苦しめられて筆硯を廃することもたびたびである。そして疾病と老耄とは却て人生の苦を救う方便だと思っている。自殺の勇断なき者を救う道は此の二者より外はない。老と病とは人生に倦みつかれた卑怯者を徐々に死の門に至らしめる平坦な道であろう。天然自然の理法は頗妙である」と。なかなか荷風らしい言葉ではありませんか。(正宗谷崎両氏の批評に答ふ:昭和7年より)
「つゆのあとさき」は昭和6年,荷風53歳の作品。谷崎潤一郎が「女給ものの集大成」と激賞し,日本風俗小説の頂点をなすものと目されていますが,「断腸亭日乗」を読むと,この時期荷風は連日カフェに通い詰め、実地取材に励んでいたことがわかります。発表当時はかなりの伏せ字があり、たとえば,「君江はかういふ場合初めて逢った×に対しては,度々馴染を重ねた×に対するよりも却て一倍の興味を覚え,思ふさま××悩殺して見なければ,気がすまなくなる。いつからこういう癖がついたのかと,君には××××××ている最中にも….」という具合。あとの××××××は「男に口説かれ」であると知れば馬鹿馬鹿しくなってきますが,この時代,この手の作品を発表することは,なかなか難しいことだったのでしょう。
また本書「つゆのあとさき」は,まず題名に味がありますが,荷風自身もこれには苦心したようで,「5月17日,晴,椎の落葉を掃う。今春2月頃より起草の小説漸く完結に近し。然れども未題名を得ざるなり」と述べ,漸く26日になって,「小説夏の草を改めてつゆのあとさきとなし草稿の浄写を笄阜氏に話す」と記しています。