摘録-劉生日記を読む

摘録劉生日記
鵠沼(神奈川県藤沢市)は,今でこそサーファーや海水浴客で賑わう湘南の中心地となっていますが,大正時代までは,松林のなかに別荘が点在するのどかな避暑地で,いまでも昔の文人画人らの事跡がそこここに残されています。
麗子像で知られる画家・岸田劉生も,大正12年の関東大震災まで,この地に住み,創作活動を続けてきました。摘録-劉生日記(岩波文庫)は,その時代の日記を集めたもので,大正9年(鵠沼日記/29歳)から震災までの鵠沼での生活と,震災後大正14年までの京都での生活が克明に記録されています。この時期はまた,短い劉生の生涯の中でも,もっとも充実したときでありました。
劉生の日記は,公開を目的としないプライベートなもので,画業の進捗具合や,体の具合,来客との対応などなど,もっぱら日常茶飯の雑事を書き記しています。それゆえ淡々とした生活の記録か….と思うのは大間違いで,劉生の日常は,躁状態が続きっぱなしともいえる賑やかなものです。
劉生の日記には,際だった特徴があって,まずやたらに客が多い。これは文士,画人,弟子などさまざまですが,とにかく朝から晩までひっきりなしに人がやってきます。そのおかげで,岩波文庫の巻末には,登場人物の人名録がずらりと並んでいるおり,これはなかなか壮観です。
で,客が来ると,とりあえずコレクションの書画骨董を見せた後,相撲をとり,ふんどし一丁で記念写真を撮ったりしています。この時代,世間一般に相撲をとるのが流行っていたのかは,定かでありません。
書画骨董のコレクションはさすがに大したもので,とくに京都に移住してからの日記は,ほとんど買い付けと,そのための金策の記録と化しています。この時期,茶屋通いを含めた劉生の放蕩ぶりはよく知られていて,娘・麗子の「回想記」にもあるように,それが命を縮めた原因とも考えられています。
プライベートな日記ゆえ,他の画家たちには遠慮のない批評をしており,春陽会をめぐる木村荘八との確執など,当時の画壇を知るための重要な記述も多く,史料的に価値のある日記となっています。
日記はユーモラスな筆致で書かれていて,この分厚い文庫本も,にやにやしながら読み終えてしまいますが,その裏には,生き急ぎ,とり憑かれたような劉生の姿が見え隠れし,読後感は必ずしもすっきりしたものではありません。それはその後の劉生の悲運な末路を,我々が知っているからだけでしょうか。
本書の底本劉生日記(全5巻)は岩波から刊行されているが,現在品切れ。岩波文庫にはほかに,岸田劉生随筆集があります。
明治24年,ジャーナリスト岸田吟香の息子として生まれた岸田劉生(1891-1929)は,一連の麗子像を中心とする作品で,近代日本を代表する画家の1人となったが,文才にもめぐまれ,画論,随筆を数多くのこしている。明治・大正の銀座をしのぶ「新古細句銀座通」をはじめ,「デカダンスの考察」等19篇を収録.挿絵多数。