明治期の翻訳というより翻案しかなかったような作品であれば,大仰に原典訳と有り難がってもいいのだろうが,たとえ重訳であっても過去に読みやすい訳が出ている場合,原典訳という謳い文句は,真面目だけれどつまらない訳,と警戒するのが普通だろう。
しかし,小林惺による原典訳,岩波文庫の新刊「山猫」(ランペドゥーサ)は,訳者が病床にあって本書を完成させ,この3月の刊行と同時に亡くなった,という事情を知らなかったとしても,たいへん読みやすく,素直に物語を楽しめる価値ある新訳だと思う(岩波によると,原稿の最終確認を終えた翌朝,他界したいう)。ちなみに,シチリア貴族であった著者ランペドゥーサ自身も1957年,生涯唯一の長篇小説である本書を完成させた直後,出版を待たずに亡くなっている。
ヴィスコンティの映画でも有名な「山猫」は,イタリアで最も親しまれている現代小説。19世紀後半,祖国統一戦争時代における貴族社会の凋落と市民階級の台頭を描いた,いわばイタリア版大河ドラマで,歴史的な興味はもちろん,色と欲をめぐる人間関係が面白く,400ページを一気に読まされてしまう。それは,時代の流れを正々堂々と受け止め,最期まで逞しい男らしさを失わなかった主人公,サリーナ公ドン・ファブリツィオの魅力によるところが大きい。ゴッド・ファーザーじゃないが,シチリア人の男気を感じる作品だ。